チベット高原万華鏡 生業文化の古今の記録を地図化する モザイク柄のヘッダ画像

チベット高原万華鏡テキストDB

「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。

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「チベット高原万華鏡テキストDB」の使い方
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日常の行為と道具
タマン(Tamang)という語を「馬に乗る人」の意味に解して、いつの頃か不明だがチベットからネパールに侵入してきた騎馬隊の末裔だとする説がある。カトマンドゥ盆地より東の山麓に住んだといわれる。しかし、その話を「高貴な人」と語義解釈する向きもある。彼らはシェルパよりも混血が進んでいるようだが、依然としてチベット系の特徴を色濃く残している。言語的にもチベット系のはずだが、タマン語の会話が聞かれることはない。ムルミ(Murmi)、ラマ(Lama)という姓はこの民族の別称だが、他に、ボンジャン(Bonjan)、ギシン(Ghising)などの姓がある。彼らは元来が仏教徒だが、ヒンドゥー教徒もいる。
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服飾文化
シッキミーの伝統的な衣服は「コー(ghoo)」と呼ばれる。この形の衣服はラダックを含めたチベット高原に一般的で、その他の地域では、ブータン、ネパールのシェルパ族などが、用いている。
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地形・天候・天体
寒冷で、非常に乾燥したラダック地方の自然は、ラダッキの人々の生計基盤であるオオムギ、コムギを主体とする農耕とヤク、ウシ、ゾー・ゾモ(ヤクとウシの種間雑種)、ヤギ・ヒツジの牧畜形態を特徴づけるものとなっている。作物が生育する夏季に、降水量が非常に少ない代わりに、河川に豊富な雪解け水が存在するというこの地方の自然環境は、灌漑水路を構築することで農耕を可能としてきた。
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地形・天候・天体
ラダックの多くの村では、牧畜は、家畜が夏の間山の牧草地で自然の草で飼育・管理され、すべての作物の収穫後に村に連れ戻されるという移牧形式によって営まれていた。そして、収穫も終わった秋の終わりには、冬の間の家畜のための牧草の確保に忙しい時期となっていたのである。
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食文化
鍋に少量ずつ青稞を入れては、渓流の中に入って、青稞の鍋を静かに水中につけ、青稞を掻き回し、青稞に付いている砂埃を洗い去ると、鍋の水を切って青稞を敷物の上に拡げ天日に干す。これを幾十回となく繰り返し、……小石を拾い出す。……これが終ると、その青稞を寺の南麓にある部落に運ぶのである。
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食文化
水車小屋は、シナ西北の各地の河畔に見られるのとあまり変わりはないが、ただ一つ、日本でもシナでも、臼は上臼が回転して摺っているが、チベットの臼は下臼が回転して摺るようになっていて、少々趣を異にしている。
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宿営地と放牧地
ラダックの農民の家では、夏の間は、家畜と一緒に暮らす山の放牧地であるドクサ('brog sa)と、畑のある村とに分かれ、農耕と牧畜を異なる生活空間に分離させた生活を営むことが多い。カラツェ村では、ドクサでの生活は牧畜に特化するのではなく、たいてい山の放牧地にも畑をもち、息子夫婦がドクサに子どもと一緒に住まい、両親は村に住んだものであるという。
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食文化
僧舎の法会で、一度それはそれは素晴らしいバター茶が出され、……私もうまさにつられ、椀半分くらい飲んだところ、突然、頭がぐらぐらとして眩暈がし何も知らない私をあわてさせた、側のラマが、「茶に酔ったのだ。少し静かにしていれば大丈夫だ。強い茶だからな」と言ってくれたが、「茶に酔った」という思いもよらぬ経験を味わった。
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宿営地と放牧地
また、暖かいカラツェでは、ドクサ、村の畑のどちらでも二毛作が行われている。村の畑では、オオムギの収穫後には、セイヨウカラシナやソバが植えられ、ドクサにある畑でも、ソバ、家畜の飼料としてエンドウ、ニュングマ(nyung ma, カブ類)が植えられる。ドクサの畑の方が、村の畑よりもオオムギの育ちが良いといわれ、ドクサの畑は重視されていた。より標高の低いバルティスタン地方では、裏作として、アワやキビが植えられていたが、カラツェの村では、アワは育てることができないといわれていた。
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人間関係
チベット人は蒙古人の祖先を犬であるといい、蒙古人と口論するとすぐ蒙古人を「この犬め、この犬め(キプソ、キプソ)」と罵る。一方これに対し、蒙古人の方は、猿がその祖先であるという彼らチベット人を「この猿め、この猿め(ピユー、ピユー)」と罵倒し返すのだから笑わせる。まさに犬猿の間柄である。
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宿営地と放牧地
畑を開梱する前にはサダック(sa bdag「土・主」土地神)、ジンラー(zhing lha「畑・ラー」)、泉の近くに住むルーを宥めるために、第2章で取り上げた「サガチョチェス」の儀礼を行うという。サダックやジンラーは土をひっくり返されることに驚き、人に怒りを向けることがあると信じられている。
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冠婚葬祭
チベットの正月は諺にもあるように「チベット人はザンバーとバター茶で新年を祝い、シナ人は赤い紙と爆竹、回教徒は肉と煙草、ネパール人は歌と遊戯でそれを寿ぐ」といわれている。盒にバター、チュラーを混ぜたザンバーをピラミッド型に山盛りにし、その上に干しナツメ、干し葡萄、干し桃、干し柿、氷砂糖を並べた正月の飾りと、バター茶を用意する。
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冠婚葬祭
(正月に)蒙古、タングート人達はハタクを持って知人を訪れ……新年の挨拶を述べ、正月の飾りと茶の接待で祝うが、チベット人達は、改まった新年の挨拶はしない。片手に、口に赤紙を差したバター茶の土瓶を、片手に正月の飾りを持って隣人、知人を訪れ、まず恭しく登壇の前に三跪三拝して、香を焚き、互いに茶と正月の飾りを接待して新年を寿ぎ、包子、焼児餅、ヤスタイマハ(骨付き肉)、ボボ等のご馳走を作って酒を酌み、歌い、踊って過ごしている。
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宿営地と放牧地
耕地区画を平らにならした後、これを区切りながら、水路を作る。1区画の中をいくつかに区切る大きい水路はナン(rnang)と呼ばれるのに対し、その中に区切られた小さい水路はショ(sho)と呼ばれる。大きな畑の場合、ナンはゾーに犂を引かせて作られる。ショはナンを作ってから数日後に引かれるが、ムギ類の場合には、播種後に作られることが多い。この溝を作る作業は、たいてい女性がパンカ(pang ka)という道具を使って行う。パンカは、木の板に鍬のように柄をつけたものでバッドと同じように整地用の道具でもある。
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娯楽
広場の一郭では、大石にバターを塗り、われと思わん豪傑どもがその石を頭上に持ち上げる力比べの競争、体にバターを塗った力士が、石畳の土俵の上で掴み合いをするチベット角力が人垣を造っていた。
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服飾文化
峠を下ってきたひとりの西康人と出会った。……彼は、耳から耳へ長いヤクの尻尾の毛を束ねて挟み、目を覆っていた。紫外線を除ける黒眼鏡の代りであろう、……。
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毛と皮革
(川の)両岸の岩頭には1本ずつ大きな棒が、……立てられてあった。棒にはヤクの皮で編んだ太いロープが結びつけて張り渡されていた。……太いロープには、堅い木の根をまげてS字型に造られた鉤の上部をかけ、下部の鉤には、A、B、Cの細長いロープが結んであった。……チベットではこの渡しをシハーと呼んでいる。
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食文化
オオムギは播種後3ヶ月くらいで収穫時期を迎えるといい、7月下旬にはオオムギの収穫時期となっており、収穫後の畑では、裏作が行われている。オオムギに比べ、コムギの場合には収穫までさらに1ヶ月の期間を要するという。5月に播種をするサブー村では、8月末から9月が収穫時期となっており、裏作を行うことはできない。
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経済活動
春の開墾から播種が終わるまでの時期は、秋の収穫時期と同様、1年で最も忙しい時期であり、隣人同士の労働交換によって作業が進められていく。この春の忙しさを譬えたことわざがラダックにはいくつかある。たとえば、「育つ春に育たなければ、秋の収穫時期に何を収穫するのか」
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経済活動
「財産は家畜ではない。皮は家畜にある」ということわざがあり、家畜は財産にならず、家畜は皮になるだけだと、家畜の数を自慢するのを戒めることわざがある。これらのことわざは、ラダックの人々には、経済的基盤について農耕を主、牧畜を従とする考えが伝統的にあったことこと(原文ママ)を示している。
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