「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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裕福な者であれば馬やヤク、羊などの家畜をどれでも放生すればよい。さほど裕福ではない者であれば鳥や虫を放生するのでもよい。貧乏な者ならば草や木などを放生すればよい。ともかくそれぞれの状況に応じて行うということだ。
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ラックは貴重で、ブータンなどでしたら僧衣に使われますね。ブータンでみていておもしろいのは、身分の高い人たちはラックを使っていますが、お金のない階級の次男・三男でスポンサーを持てなかったお坊さんは、ブータンアカネという日本のアカネに近いようなもので染めた服を着ている。少し黄味を帯びた赤です。だから着ている僧衣によってランクがわかる。
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1980年代のラダックでは、それぞれの家庭で、刈り取った羊毛をもとにゴンチャ(gon cha)と呼ばれる着物を仕立てていたのを眼にした。刈り取ったヒツジの毛の汚れを丁寧に取り、毛梳き器で毛並みをきれいに梳き、糸に紡いで布に織っていた。家族全員分のゴンチャを仕立てるのに必要な糸を用意するのは主婦にとって大変な仕事で、彼女たちは暇をみつけては羊毛を紡ぎ、必要な糸の準備に精を出していた。
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1980年代のラダックでは、機織りは専門職となっており、織機をもった職人が村々を訪れ、家の軒先で布を織っていた。織られた一着分の布は染屋で染め、ゴンチャに仕立てられていたが、自前のウールで仕立てたゴンチャは暖かく、冬の生活には欠かせないとラダッキは語るのであった。
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ラダックやザンスカール地方には、既婚女性は既婚の証であると同時に財の誇示ともなる「ペラック」と呼ばれるトルコ石を縫い付けた頭飾りを必ず身に着けるという伝統が会った。1983年当時、ザンスカール地方の村では、既婚女性はまだ「ペラック」を着けて、ゴンチャを着るという装いが維持されていたが、ラダックの中心地レーでは、既婚女性の装いはすでにペラックではなく、山高帽をかぶりゴンチャを着るものに変わっていた。
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ラダックでは、結婚式のときにトルコ石が付いたペラックという頭飾りを着けます。これを着けていることで既婚者であることがわかった。この頭飾りのトルコ石は代々母から娘へ受け継がれるもので、娘を結婚させるときには、母親がそのトルコ石のほとんどを娘にあげます。娘を嫁に出した母親の頭飾りは自分のために残した1列ぐらいしかない。たとえば4列あったトルコ石が真ん中1列だけになったペラックを着けたおばあちゃんをよく見ました。
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ラダックでは、穢れよりもむしろ邪視など、さまざまな危険が子どもに降りかかることを問題にしていますね。子どもにはたいてい邪視除けののお守りをつけます。
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チベット仏教徒の間では、誕生、結婚、葬儀といった通過儀礼を初め、多くの儀礼が仏教の経典に則って実施される。毎月吉日に僧侶を呼んで、月例の「ラップサンス(家のラーの浄化)」や「チュウトル(水の献供)」と呼ばれる浄化儀礼や、「ソルカ」というご読経儀礼を行う。年に1回は、カンギュルという経典を読み通す儀礼もあり、その年の農作業の開始にあたっては、畑の神、土地の神に供物を捧げて、畑を開墾して騒がせることの許しを請うた。初めてのオオムギの収穫では初穂を大黒柱にくくりつけ、「シュップラー」という初穂儀礼を行っていた。
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ユーラシアの牧畜民では、サハのウセフのように、夏の間の牧畜生活の繁栄の願いが込められた「夏至祭り」あるいは「春の祭典」が大規模に行われる。民族集団のメンバーが一堂に会する機会である春の祭典は、宗教的な意味だけではなく、遊動生活を基本とするなかで日常的には分散して暮らすことが多い人々が出会い、各種の競技を楽しみながら集団への連帯性、共同性を再確認する場ともなることが分かる。
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農耕社会では、作物の生育に合わせて儀礼が実施されるなかで、収穫祭が大きく祝われる点に共通性をみることができる。祭りの実施方法をみていくと、そこにはそれぞれ独自の伝統的な世界観が投影され、祭りには楽しむと同時に伝統的世界観の継承を図るという大きな意味が託されているのをみることができる。このことは、ラダックのチベット仏教僧院の祭礼にも観察できる。
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農耕に関連した祭りは、ラダックにもあります。チベットでも主要作物はオオムギやコムギです。そのムギの最初の収穫、初穂刈りのときに大きな祭礼をするところが青海省のチベット人の村々には残っています。その祭りでは、村中の人たちが出てきて村の神のところに行ってまずお祈りをして、踊りを奉納する。もう一つ、その村では、村の鎮守の神様に血の奉納をします。男の人が体のあちこちに串を刺して踊る。激しく踊ることで血を出して自分の体を供養するかたちで神に祈る。
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ディモの乳は、まずヨーグルトに加工し、ヨーグルトからバターを作る。ヨーグルトは加熱した乳に古いヨーグルトを加え、鍋を布で包んで温かく保って発酵させてつくる。
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バターを作る手順は次のとおりである。ヨーグルトを羊の皮袋に入れて手でゆすって、二〇分ほど撹拌する。固まってきたバターを布袋で濾して、それを容器に移し、冷水を加えながら一五分ほど手で捏ねて固める。完成したバターは皮袋に入れて保存する。
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バターを取り出した後に残る乳(ホエー)からチュルピと呼ばれるチーズが作られる。この過程は、チャンタンではみていないが、下ラダークのドムカル谷の放牧地で観察した。
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チャンパは、秋に少なくともヤク一頭、山羊・羊数頭を屠って、冬のあいだの自家消費用とする。ヤクは鼻と口をロープで縛って窒息させる。そのあと、腹部をナイフで切り、手を入れて動脈をちぎる。そうすると、血が腹腔にたまる。その血は腸詰などにして食べる。家畜の食用としての需要も増えており、レーから食肉業者が買いつけに来るという。
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ザンスカルとの交易 道路ができる前は、大麦を手に入れるため、ザンスカルまで行った。チベット暦八〜九月の大麦の収穫用に最もよく行った。ヤクでは蹄が傷ついて長旅ができないので、チベットの塩を小さい荷袋に入れて雄の羊・山羊に背負わせた。
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チベットとの交易 一九五九年までは、塩を手に入れるために、中国製の銀貨と大麦をもって、チベットに行った。人だけなら一ヶ月、羊・山羊を連れていくと一ヶ月半かかった。チベットからこっちに塩をもってくる人もいた。彼らには塩の代金として銀貨を渡した。ドムカルからもチベットに行く人がいた。彼らはドムカルから乾燥アンズとツァンパをもっていき、チベットで塩と羊毛を手に入れていた。
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南のヒマチャル・プラデーシュとの交易 南のダルチェやスムドにも行った。そこまでは八〜九日かかった。羊毛、パシュミナ、塩をもっていき、大麦、小麦、米、豆、砂糖、食用油などを手に入れた。ケロンの手前まで行ったが、それより南は暑すぎるので行かなかった。
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交易の衰退 自分が二二歳(一九九〇年頃)から、レーで羊毛を買う人が少なくなった。道路が整備され、その頃から、こっちに車で羊毛を買いに来るようになった。また、自分が三〇歳の頃(二〇世紀末)から、交易をしなくなった。道が整備され、政府の食用援助(配給)がはじまったためである。
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塩の交易 一九八〇年代まで、チャンパは、六、七月と九、一〇月の年二回、ザンスカルに塩をもって交易に行っていたという。この交易の旅はそれぞれ一四日かかり、ザンスカルでの七〜一〇日間の滞在を含め、往復五〜六週間の旅だった。