「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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ツァイダム蒙古人の主食はザンバ(麦こがし)である。包の外にこしらえたかまどで、肌ぬぎになった女たちが、忙しそうに大麦をいっているのをよく見かける。大きな鉄なべにきれいな砂を入れてよく熱し、一すくいの大麦を投げ込んで直ぐかきまぜる。パチパチと麦が開いて花が咲いたようになる。鍋をおろして浅い箱に砂ごと移す。箱の底には目のこまかい金網が張ってあるので、砂は下の箱へ落ち大麦だけが残る。これを引臼で引けばザンバができる。いる時に麦を焦がさないことがコツである。彼らはこのザンバに粉チーズをまぜバターとお茶で練って食う。
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夏ともなれば盆地の蒙古人部落はフェルト作りで忙しい。牛の皮五、六枚を縫い合わせて作った広い皮(横二間、縦一間)の上に、羊毛(楊柳の枝でたたいてこまかくほぐし、砂、泥などを落したもの)を一面に広げ水をうち、その上に子羊の毛(同様に準備したもの、柔らかい毛は密着力が強い)を広げ水をうち、さらにその上に羊毛を広げ水をうち外側の皮ごと巻くと、ちょうど巻きずしのようになる。それを長いロープで二巻き半して一端を騎馬の鞍に結び、他の一端もまた馬に乗った人の鞍に結びつけ、一方が引っ張る時は片方はバックしてゴロゴロころがす。これを交互にくり返す。真中の巻きずしのところにひとりいてロープで各部分がまんべんなくしめられるよう案配する。
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このあたりの谷はしめっていて草は密生しているが、ボホ・シャラガと呼ばれる草で非常に堅い。長さ二〇センチ、太さは線香くらいだが、ナイフで切ってもうまく切れない。私のラクダの一頭が老年で、毎日ナイフでこの草を切って食わせたが手が痛くてまめができた。若い馬やラクダでもこの草をくわえてしごくと、キューッと音がして何本かしか食い切ることができない。青海――チベット隊商路の三分の二はこのボホ・シャラガが牧草の主体である。そのため、この道路を数回往復した家畜は、歯が摩滅して売買の時は歯で年齢を判断されるためたいへん損をするとか。
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毎朝、午前二時ごろになるとヤクを追うシーッ、シーッ、ハーという掛け声が聞え、ガランガランというヤクの首にさげているドラの音が聞えて来る。
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力つきたヤクが道ばたへすわり込むと、一しきりむちでたたいて起そうとするが、どうしてもダメとわかれば荷物を他のヤク(予備のヤクもいる)に移し、荷鞍を取って最後にふさふさとしたヤクの尾を付け根から切り取る。ことに白いヤクの尾はラサやインドでよい値で売れる。
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キャラバン全体の構成からいえばヤクの数が一番多いし、したがって荷物の量もヤク群のほうが多い。普通ヤク二頭の荷物をラクダ一頭が運ぶ。全キャラバンの日程はどうしてもヤク群を基準にして組まれるので、一日の平均距離は三〇キロくらいに限定される。
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チベット人全体にいえることであるが、彼らは、ラクダが口の中で反芻しているドロドロの草を吹きかけられると癩病になると信じている。だから全キャラバンが毎晩見張りを立て、戦々兢々として盗難を警戒している時、私たちラクダ隊だけは見張りの必要もなくゆうゆうと安心して寝られる。
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ある年、秋の営地の、ゴツァ村の遊牧部落がキノコのように固まって暮らしている場所の上部の、山の斜面にひとつの家族が暮らしていた。
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そこには、サイコロのような方形の黒いテントが張られていた。
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入り口の両側には、黒褐色の四つ目(目の上に白い斑のある)で、虎か豹のように大きな犬が二頭繋がれていた。
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牡馬は綱に金具で繋ぎ、牝馬は前足を繋ぐ。
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母はメシュルツァンの娘一人と、近所の女性一人の三任で、道中の食料を背負って、夜明け前に徒歩でラブラン・タシキルへ巡礼に出発した。
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鳥葬場に着くと、遺体を切り刻む役の老人が、長髪を後にまとめ、袖まくりをしてから母の剥いで裸にし、うつ伏せに置いた。そして母の首に白い綱を巻き付け、打ち込んである杭に結び付けた。
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人々の噂によると、この老人は、そこに来るすべてのハゲワシを一羽一羽知っているだけではなく、それぞれに名前を付けていた。そして、いつもはハゲワシ立ちを名前で呼び、話をしながら肉を好むものには肉を与え、血を好むものには血を飲ませ、ヒゲワシには骨を砕いて与えていたそうである。
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やがて再び西方からほら貝に似た、白いハゲワシが飛来し、まっすぐ母の胸の肋骨の上に降り立ち、背中をくちばしで三、四回つついて飛び去った。そのハゲワシが飛び去るやいなや、そこにいたすべてのハゲワシがすばやく集まって来て、肉をつつき、皮を引きちぎって食べた。
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老人は遺体の頭部を潰して、髪と脳みそを一緒に捏ね、それをハゲワシに食べさせた。大腿骨などの大きな骨も潰して、ハゲワシとヒゲワシに与えた。
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四十九日の間ナクツァン家は、上は僧侶と僧院の学堂に多くの馬、ソク、羊を布施し、下は犬や乞食にたくさんの茶、バター、肉を施した。
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ある暑い日、タムコ叔母はテントの入り口で両足の膝と、脛に脂を塗って、太陽に当てて温めていた。
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その夜もまた、兄が茶を沸かし、石臼で干し肉を少々砕き、祖父と二人で麦焦がしを捏ねて食べた。
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父と仲間たちが山での狩猟から戻って来て、干し肉や鹿の角、毛皮などを持ち帰って来た。そして熊の大きな毛皮を祖父の寝床に敷いた。祖父は「おお、これは本当の赤熊の毛皮だ。これを敷けば楽になる」といって非常に喜んだ。