「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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もう一人は……日本製の安っぽい香油を詰め合わせたものを持ち返っていた。富裕階級は通常、チベットの吹きっさらしの風から膚を守るために、顔に厚く香油を塗っており、これはチベットでは大流行品であった。
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私たちのキャンプの近くにはシェーカルの大麦畑があり、農民たちは鮮やかに飾り立てた雄牛を使って畑を耕していた。チベットの田舎の地方では、雄牛は普通、角に鮮やかな赤のふさを飾り、頭の両わきに垂らしている。
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脂肪をたっぷり蓄えた上等な肉は皮で包み、ヤク糞で作った特別な箱に入れる。箱は湿ったヤク糞で覆い、凍らせる。春になって融けてきたころには、新鮮な肉がたっぷり食べられるというわけである。
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多くの牧畜民は同じ農村を再訪し、同じ農民たちと交易をする。彼らはよい友人関係を結ぶ。一部の農民たちは山に行って、牧畜民の飼っている羊を盗もうとすることもある。そうなると抗争である。牧畜民たちは農家を襲撃しに行き、羊を奪い返す。
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時には縫い針や糸のような余剰品のある農民が、食品や穀物、お茶などと一緒にして息子に託し、牧畜民の冬の宿営地まで届けさせることがある。
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(派遣された農民の若い)彼が牧畜民の娘と出会って結婚することさえある。こうしたことは頻繁には起こらないが、みながそれで幸せになり、二人が牧畜民としてあるいは農民として、望みの土地で暮らすことに問題がない場合は、あり得る。
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男たちは多少の煙草はたしなむが、飲酒の習慣はない。煙草を吸いすぎると、山で過ごすときに咳が出るし、胸に悪いと言う。しかしあまり動き回る必要のない老人たちはかなり煙草を吸う。彼らは羊の足の骨でできた特別なパイプに煙草の葉を入れる穴をつくったものを好んで用いる。
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精霊によっては昆虫の形で現れることもあり、それが発生すると悪影響が生じかねない。そうした影響から身を守るために、初期のボン教は精霊をしとめる罠を考案した。それは木の枝を交差させたもので、そこに様々な色の糸で明確かつ複雑な文様を作ったものである。これらは精霊を惹きつけるものであると同時に精霊を捕らえるものでもある。まだチベット中で用いられている。
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ヤクの肉の食用禁止令 第三に、ヒマラヤ原住民のうち、タカリー族のように、チベット文化の洗礼を受けた民族集団が一般的に愛好してやまないヤク(チベット牛)の肉を食用にすることを禁止した。この禁止令はタカリー族の脱チベット化や、ヒンドゥー化を考える飢えで、きわめて象徴的であり、重要であろう。
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塩の価格の大幅下落 一九二八年のチベット岩塩の輸入独占権の廃止が第一の打撃だとすると、それから四半世紀後にタカリー商人たちは第二の打撃をうけることになる。第II章で述べたように、一九五一年に、百年あまりつづいたラナ将軍家の政府が「民主革命」により打倒され、王政復古がなされた。そして、現在のビレンドラ王の祖父にあたるドゥリブバン王が政治のイニシアティブをとり、政党政治を復活させるとともに、一世紀にわたる鎖国をといて開国に踏み切ったのである。
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山羊、羊、牛、ゾモは全て搾乳される。乳の一部は茶に入れてそのまま飲まれるが、残りは若干温めた上でヨーグルトを加え、半日程放置される。すると乳は乳酸発酵をおこしてヨーグルトになる。
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チュルピはそのまま食べることもできるが、普通はスープの具にする。煮るといくらか柔らかくなって、ちょっと肉の様な食感になるし、良いダシも出るようだ。なれるとなかなか良いものである。ちなみに、チベットの都のラサへ行くと、このチュルピばかりを売っている店がある。キャラメルの様に四角いのやら、粒状のものなど、形状は様々である。
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それに比べると、ラホールでみられるようなチベット的な乳利用の技術はいかにも素朴である。ひとつの民族が本質的に農耕民であるか、牧畜民であるかを議論することは必ずしも生産的ではないし、チベット人の中には定着せずに、家畜のみに依存して暮らす人々がいるのも事実である。しかし乳利用の仕方にみられるように遊牧生活への組織化、その技術の洗練の程度においては、チベット人はモンゴル人に遥かに及ばないと思う。
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チベット内地人はバタ、塩、羊毛、羊、山羊、ヤクの尾というような物を供し、またネパール人及び雪山地方のチベット土人は、布類、砂糖、羅紗類をインド地方より仕入れて、バタ、羊毛、ヤクの尾の類と交易し、それをまたインド地方へ売るんです。もっとも羊毛とかバタを売ります時分には金を取って売ることもあるので、その金は大抵インドの銀貨であるです。
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錯雑な勘定になりますと、白い石粒と黒い石粒とそれから細い竹屑のような物を持っておりまして、まず白い石粒が十になりますと黒い石粒一つに繰り上げ、黒い石粒が十になりますと竹屑のような物に繰り上げ、それから竹屑が十本になりますと白い坊主貝のような物に繰り上げ、それが十になりますとチベット銀貨に繰り上げます。
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この辺にはいろいろの蕈(きのこ)が生じて居る。すなわち水蕈、黄色蕈が樹もないのにその湿地に生じて居る。その蕈が非常にうまいからというので同行の女たちは取って参りバタで揚げて塩を掛けて喰いますと成程真にうまいものであったです。
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どうして白いのかというとあれはプートーすなわち天然ソーダの池であるという。その辺へ着きますと私どもの一行は皆それを沢山取り集めてヤクの毛で拵えた袋に入れてヤクに背負わせた。これは茶を煮る時分に入れるのです。
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巡礼が通ってきたこの地では、狼に殺されたレイヨウ、鹿、また特にチルーなどの死体を得ることがよくあった。中でもチルーと訳がお互いに殺し合った死体は特にたくさんあった。死体を得た家は、夕方宿営の準備が終わると、宿営地の中心の香を焚く台の近くにそれを運び、肉を必要とする家に分配した。また連れているヤクが死んでも、その肉を分配した。それは巡礼団の掟であった。
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何か食物を下さるまいかとやっとの思いで声を出すと……懐から出してくれたのが、牛乳を煮て冷して置きますと薄く上へ張って来るクリーム、それを集めてその中に黒砂糖を入れたものであります。それはこのチベットのチャンタンにおいては無上の菓子として人に贈りあるいは珍来の客にすすめるものであるが其菓を私に一個くれたです。
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米の御飯にバタの煮たのを掛けて、その上に砂糖と乾葡萄とを載せたチベットでは最上等のご馳走を私にくれた。