「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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冬季の家畜群は定住集落から比較的近い標高3,600mくらいの放牧営地の周辺に放し飼いにされていた。この間、P家の人びとは1週間に1度、塩を与えに行ったり群れの状態を確認に行く程度の管理しかおこなっていなかった。
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シャングリラ県全体をみた場合でも、移動牧畜に従事している世帯は村内の半数から3割程度であった。これ以外の世帯は、10頭以下のウシ亜科家畜を、村落周辺で放牧しながら、補助飼料としてムギワラやカブを与えながら飼養する、定牧的な家畜飼養をおこなっていた。こういった世帯の割合は近年さらに増加する傾向をみせていた。
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その土地は畑が十分にあるうえ、草も水もよく、肉もバターも羊毛もチーズも必要十分なだけ得られるので、全般的に半農半牧の条件が揃っている。
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そもそも彼女は雌牛を放牧しに行くのにツェテン・ラモとは違って毎朝母親がツァンパ団子の中にはバターを仕込み、懐には煎り麦と干しチーズを持たせてやっていた。しかし雌牛を放牧するのも楽ではなかったので、三日経ったらまた学校に行くんだと言い出して、ツェテン・ラモが引き続き雌牛の放牧に行かねばならなくなった。
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それからわれわれはチェリの地を通過した。そこは市内の屠畜場である。不思議なことに、ここにはカシミール人が肉を買いに来ているのである。ラサ在住の彼らは屠畜に関するイスラーム法には極めて緩やかに対応しており、チベット人が殺したヤクでも食べる。たとえそれが矢やナイフで腹を傷つけて殺したものであってもである。
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羊脂はチベット人の間でお茶に入れるバターの代わりによく用いられている。それはやむを得ずというよりはむしろバターよりも好んで用いられているのである。--(W.R.)
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ここで用いられる全てのバターとミルクはダライ・ラマの所有する500頭のゾモ(交配種)から得ている。人びとはそのゾモの群れに出くわせば帽子を脱いだり五体投地をしたりして礼を尽くす。20人のツェトゥン(僧官)がこれらの家畜を放牧し、搾乳をし、攪拌してバターにしている。
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われわれは川岸で昼食休憩を取ることにした。そのとき私は魚の骨や殻があたりに散らばっていることに気づいた。ゴポンによると、この地域の人びとは小さな魚を捕まえたら全て畑の肥料にするのだという。骨が多すぎて食べるのに適していないのだ。
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晩に男たちが2匹の仔山羊を殺した。血はきれいに洗った腸に注ぎ、煎り麦粉(ツァンパ)も加える。これをゆでた血のプディングを第1胃(トライプ)に詰めて柳の枝で編んだ籠に入れて自分用の道中の食料とした。
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家の側にある羊囲いから、50匹の羊が村の奥にある屠畜場に連れて行かれるのを見た。屠畜人は1匹殺すたびに真言を唱える。彼らは謝礼として頭を受け取る。
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私の朝食はスープ(トゥクパ)にツァンパ、大根、髄、刻んだ羊肉、塩少々、乾燥チーズ(チュラ)を加えたものだった。
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我々の朝食はたいていパンを2、3切れとお茶、そしてヤトゥクという、ツァンパと羊肉、乾燥ミルクを煮詰めて薄い粥状にしたもの1、2杯であった。
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子どもの頃はプンツォクのことを兄と慕っており、一緒に雌牛を放牧に行ったり、草刈りに行ったりしたものだ。他の子に意地悪なことを言われたときにかばってくれたし、ままごと遊びをするときはプンツォクがお父さん、ツェテン・ラモがお母さん、ドルマとプティが娘になった。プンツォクがツェテン・ラモを押し倒したりすることもあったけれども、それも父親と母親の真似をしているだけなので、彼女は抵抗もしなかったし嫌だとも言ったこともない。
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しかし間違いは、昨晩馬の餌に家畜の血を入れたことと、今朝、馬を奮起させるために濃い茶汁を急に飲ませたことで、馬が酔ってしまい、コースを大きく外れて勝手に走って行ってしまった。騎手がなんとかなだめて戻ってきた頃には大きく水をあけられ、もはやどうしようもなく、「馬糞を拾う者」とならざるを得なかった。
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郊外のある地域には家々がウシやヒツジの角で造られている一画があった。一風変わったこの建物は実に堅牢で見た目も大変よい。ウシの角は滑らかで白く、これとは対照的にヒツジの角はざらざらとして黒い。この変化に富んだ資材が無限の組み合わせを呼び、うまく配置されてありとあらゆる素晴らしいデザインを作り出していた。隙間はモルタルで埋めてあった。
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言うまでもないことだが、ラサに住む人びとは極めて多量の牛肉と羊肉を消費している。角の家はその事実を如実に表しているのである。
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外国の賓客を宴するには、かならず犛牛[ヤク]を駆り出し、客にみずからその牲畜を射させ、そしてこれを殺して馳走に供する。
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また、氈[せん]で盤[さら]を作り、麺を練って椀を作る。それに羹や酪[ちちしる]を満たし、いっしょにそれを食べてしまう。
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公主は、吐蕃の人たちが赭面[しゃめん]するのを嫌ったので、弄讃は国中に命令して、仮にしばらくの間これを止めさせた。またみずから毛織りや裘[かわごろも]の衣服を脱ぎ、薄絹や綾絹の服を着、漸次中国の風俗を慕うようになった。
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そして酋長・豪族の子弟を遣わして国学に入れ、『詩経』『書経』を習わせることを願った。また中国の文字をよく識っている人を送ることを願い、その奉る文書を司らせることにした。