「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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1101
城郭や住宅はあるが、これにはあえて住まず、毛織のテントを並べてそれに居住する。これを大払盧[プル]と称するが、数百人を容れることができ、そのまもりは厳重で、本陣はひじょうにせまい。部の人たちは小さな払盧に住まう。
1102
長生きするものが多く、百余歳になるものがいる。衣服はだいたい毛織・皮である。赤土を顔に塗ったのを綺麗だとする。夫人は辮髪してまといつけている。
1103
その器は木を曲げて底に皮を張り、あるいは毛織物をもって大皿を作る。麦粉を蒸し固めて椀を作り、羹や酪を満たして、器もろともこれを食う。〔また〕手で酒などを受けて飲む。
1104
ついに、城邑を築き、家を建てて〔公主を〕ここに住まわせた。公主は、吐蕃の人たちが赭面するのを嫌ったので、弄讃は国中に命令して、仮にしばらくの間これを止めさせた。またみずから毛織や裘の衣服を脱ぎ、薄絹や綾絹の服を着、漸次中国の風俗を慕うようになった。
1105
公主は国人が顔に赤土を塗るのをいやがったので、弄讃は命令を下して国中にこのことをするのを禁止した。またみずからの毛織の衣服を脱いで白絹・薄絹を着、中国風にした。
1106
チンギス汗は、「獣を食せんと欲するときは、四股を縛り、腹を剖き、獣の死する迄手をもてその心臓を締めつくべし。イスラム教徒の屠殺するが如く、獣を殺するものは、自らも屠殺せらるべし」という法を定めた。「獣」を殺す際に首を切って屠殺したものには、同じように打ち首の刑を科すというのである。
1107
肉を焼くことはない。近年、都市部を中心にヨーロッパ風のステーキや中央アジア風の串焼きなども食べられるようになってはきたが、しかし遊牧地帯では依然として肉は焼かれない。肉を焼くと肉汁が火に落ちて火を汚すとして、チンギス汗当時は厳罰が科されたのである。火を神聖視するシャーマニズムからきた掟ではあったが、結局は燃料の少ない草原地帯で肉を焼くことの無駄を省き、さらに肉の栄養分を無駄なく吸収しようとする生活の知恵であったろう。
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また乾燥肉や塩漬け肉もよく利用される。乾燥肉は保存用あるいは長い移動をするときなどの便利な携行食品、遊牧民にはなくてはならない。乾燥肉は、ただ細長く切って吊るして置くだけ、ハエの多い夏などは小麦粉をまぶしたりする。
1109
食べる時には客人は自分の方に向いている部分、つまり肩やアバラなら背骨に近い部分、脛骨なら足先(細い方)を握って、肩なら広い方から、アバラなら湾曲に曲がった内側から食べる。また頭部は右の頬肉、次に左の頬肉、そして耳という順序。周囲の肉を食べた後に頭を割って脳ミソ、そして目、最後に鼻部を食べる。内臓は、血を詰めた腸詰を最初に食べるが、これは「血は肉の精」といった考えからきているようだ。
1110
妃はクルカル王に、「あなたのおそばに参りたいのはやまやまですが、その前に、わたしはある願を成就するために、リマ(ヤギや羊の糞)でチョルテンを建てねばならないのです」と言った。
乾いたリマはころころ転がり、チョルテンは造るそばから崩れてしまい、けっして完成することがなかった。こうしてホル王を欺いて時間を稼いでいる間に、おまえがもどってくると彼女は来たいしたのだが、あいにくそうは行かなかった。
1111
「あの女があなたをだまそうとしているのが、おわかりにならないのですか」とトトゥンはホル王に言った。「リマを蜜蝋に浸せ、と彼女に言えばよいのです、そうすればリマとリマがたがいにくっつくでしょうから」
1112
ケサル王は、乞食僧の姿のままで、リン国に到着した。同地で、山の上で馬の番をしているセンロン王と、トゥマ(食用になる草の根)を獲り入れている母を見つけた。
自分が誰かわからないようにして、母の近くに行き、トゥマの施しを乞い、その代わりに何かひとつ経文を唱えようと約束した。
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初めてのニェモ訪問で、また新たに訪ねたい場所や人々のことを知りそれから後も何度もニェモに通っている。そこには焼物を作る人体が暮らす集落や経典の版木を彫る人たちの村もある。ニェモは水はけのよくない土地なので、雨が多い年は作物の実りがよくないというが、ニェモに手工芸に携われる人が多いのも、そうした土地柄と関係があるのかもしれない。
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粘土のような木の粉はブロック状に固めて川岸で干し、乾いた木粉のブロックは細い隙間を設けて円筒状に積み上げられている。(中略)木粉のブロックをプバといい、この原料になる木はコンボの森林帯に多く、常緑樹で香りのよい水だそうだ。ジャムドゥンさんは木の名をシュパだと言ったが、どうやらヒノキ科のビャクシンの類らしい。
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線香作りは分業だそうで、彼は農業の傍らこのプバを作っているという。こちらの川岸にも対岸にあるプバ作りの水車にはそれぞれ持ち主があって、誰もが副業としてやっているそうだ。(中略)ここはチベット文字を考案したトゥンミ・サンボタの生まれた地なので、この川はトゥンチュと呼ばれている。ヤルンツァンポの支流だが、トウンミ・サンボタは川の合流地点に「支流に魚が入らないように」と字を書き、それ以来、このトゥンチュには魚は一匹も棲まない。仏様に供える線香を作る川で魚を擂り潰すような殺生を避けるためと、なによりも不浄な水にしないためにと、その文字を書いたのだそうだ。
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紙の原料にするのは草本のジンチョウゲの根で、このクサジンチョウゲは夏にチベットに行けば、山の斜面や草原のそこかしこで見かける草花だ。私たちが日本で知っている木本のジンチョウゲと同じように、小さな花がこんもりと半球形に集まって、ぼんぼり状のひとつの花に見える。一番多く見かけるのは、やはり日本のジンチョウゲと同じように小花の表が白く裏が臙脂色の花だが、表が薄い黄色、裏が濃い黄色のものもあるし、表が白く裏が黄色い花もある。(中略)藏紙はクサジンチョウゲの根から作る。
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版木の両面に文字を彫り込むのだが、一面の文字数は、だいたい一五〇〜二〇〇文字ある。片面を彫るのに早い人で4日、遅ければ六日で掘るそうだ。
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今はもう見られなくなったが、以前は赤土で焼いた香炉やポットなどを馬車や驢馬車に積んでラサに向かう人たちがいた。どこから来たのかと尋ねたら、ニェモのタラメバからだと答えが返ってきた。ニェモには焼き物の里もあるのだった。
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魚食の村のジュンバは、また革細工師たちの村だ。そこでは伝統的な品物、たとえば、コワ、さいころゲームの台座や馬の荷袋やツァンパや塩を入れる袋、クッションなどを作り、ラサや近郊の人たちに売っていた。クッションの詰め物は、洗って干したジャコウジカの毛だ。線香作りのトゥンドゥプさんも言っていたが、ジャコウジカは蛇避けになるからだ。
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革をなめすのは、夏の仕事だ。冬は革が硬くなっているので、なめしてもぶつぶつが残って滑らかになめせないからだ。