「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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色違いの革でのアップリケや、型押しなどが施された袋物は、そのデザインにチベットの伝統が息づいているようだ。またそれらを作る時の、伝統的な手法は、いまも健在だ。たとえば、二枚の革をかがり合わせる時に使う細い革紐は、細く裂いた革をペーバンの中に入れて柔らかくする。ペーバンというのは馬糞を干して粉にしたものだが、そこに入れておくと、革が固くならず、細工しやすいからだ。
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これらの伝統的な製法の袋物も化学染料を使うようになったためか、色使いは鮮やかできれいになって、伝統的な使い方のためにではなく土産物としての需要の方が多いようだ。(中略)メトコンガの陶器工場では外部の者が関わることで伝統が崩されていくのを見たが、ここでは外部の者が関わることで、伝統に新たな可能性が開かれているように思えた。
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チベットではどの地方へ行っても、機織りをする人の姿を見る。たいていは戸外での腰機だ。室内での高機を見ることは非常に少ない。羊の毛を染めた糸で袋物にする布を織ったり、ヤクの毛でテントの布を織ったりする。それらは自家用の織物だ。
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機織りは女たちの仕事だが、ヤクの毛織りは力仕事でもあるので、男がすることも多い。女たちが織るのはたいていは縦縞の布で、これは経糸を色糸で縞にひいて緯糸をかけていけば、自然に縦縞の布になる。これに花模様を織り込んだりする場合があるが、これを織れる人は少ない。
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民族服チュパに着ける前掛けのバンデンは、細幅に織った横縞を三枚接ぎ合わせて前掛け幅に仕立てるが、それは自分で織ることもあるが、たいていは出来合いを買っているようだ。
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ある夏のこと、牧民たちが暮らす草原で、刈り取った羊の毛を粗く撚りながら束にしているのを見たことがある。撚った一本は、両手で抱え持つほど太く、羊毛の縄のようだった。また、羊の毛を刈り取っているところに居合わせたこともある。女でも男でも、歩きながら、家畜の番をしながら、子守をしながら糸紡ぎをするのはごく普通のことだ。自分たちが飼っている羊やヤクの毛を刈り取り、その毛を刈り、その毛を糸に紡ぎ、その糸で布を織るというのは、ここでは至極当たり前の暮らしなのだった。
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ロカやシガツェなど、南の地方で育った羊の毛はユベと呼んで毛質が柔らかいが、北の地方の羊毛はチャンベと呼んで毛質が硬い。布にした時にはユベの方が着心地がよく温かで、南チベットで産するユベの織物はナンブと呼ばれ、好まれる。だからナンブは商品価値も高く、ロカには商品としての布を織る人たちもいる。
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タクツェにあるムディシュという地方では、商品としてのナンブとバンデンの布を織っている。ナンブは経糸、緯糸共にウールで、バンデンは緯糸はウールだが、経糸は極細の木綿糸を使う。緯糸を染める染料は岩石から採れる鉱物染料で、染めるには刈り入れの頃の季節が一番いい。その季節に染めると、色がよく定着するそうだ。
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バンデンは横が五二、三cm、縦が七〇cmほどの前掛けだが、一八cm幅ほどに織った横縞の布を縞に少しずらして三枚接ぎ合わせて横幅を取るので、単純な横縞に表情が出て、縞がより美しく見える。機織りの現場を見るまで私は、幅広く織った一枚の布で仕立てる方が容易なのに、なぜわざわざ三枚つぎ合わせなければ足りないような細幅に織るのか理解できなかった。単純なな横縞に複雑な表情が生まれるように、ただ見た目を考えただけのことからなのかと思っていた。
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水平織り機で、経糸を五〜六mほどの長さに整経するが、四本ずつ束にした極細の木綿糸を幅一八cmより少し広い程度の筬にかける。チベット語でネノママと呼ばれる筬には五五本の歯があったから、経糸は二一六本となるわけだ。
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織り機は足踏み式の高機で、踏み板は四枚ある。鉱物染料で染めた羊毛の糸を巻いた杼が、幾色も籠に入って織り子の左右の脇に置かれている。たった二〇cmにも満たない幅に二一六本もの経糸があって、そこに杼をくぐらせて織っていくのだ。もしバンデンを三枚の布を継ぎ合わせずに一枚でおろうとしたら、単純に計算して五〇cm強の幅に六〇〇本以上の経糸にして踏み板は一二枚にしなければならない。
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リズミカルに四枚の踏み板を交互に踏み、杼を差し入れ、筬でトントンと糸を打ち込み、縞の布は織られていく。筬を打ち込むと、一定のところで手前に巻き取っていく。三日で一巻織るそうだ。一巻で、七、八枚のバンデンが作れる。木綿糸はインドから仕入れているが、羊毛はここで糸を紡ぎ、染めている。杼に糸を巻くのは足踏み式ミシンを使っている。
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依頼人が対象のヤクを村のはずれに繋いでおくと、屠畜を依頼された若者たちは夜明け前にヤクを撲殺して去る。屠畜者は屠畜の現場を他の村人や牧畜民にみられることはなく、また村人も直接目にする必要がない。ドルジの事例では屠夫はヤクを撲殺することが仕事であり、細かな解体等は行わない。したがって、殺されたヤクの解体作業は結局のところ雇用主自らが行うことになる。
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騎馬遊牧文化の代名詞として、「スキタイ文化」という術語が使われ、スキタイ文化の三要素として(1)動物文様、(2)馬具(特にはみ)、(3) 武器 (三翼鏃とアキナケス剣)が注目されてきた。そして、あたかもスキタイ文化が中央ユーラシアの西部すなわちヨーロッパ側から東方に伝播して匈奴文化になったとみなされていた。しかし、最近の研究では、騎馬遊牧文化の源流はむしろ中央ユーラシアの東部にあり、それが西方に拡大・伝播していったという学説が優勢になりつつある。
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羊の場合はヤクの毛や羊毛で編んだ縄や皮製のベルトでその口を縛りつけ、気絶するまで5分から10分くらい時間をかけて窒息させる。気絶後、胸骨の下部をナイフで10センチほど切り込み、手を入れて心臓(ショグ・ツア)の肺動脈を切り、それから内臓を出し、胴体を解体する(写真9,6)。牛も基本的に同じだが、牛の場合は心臓の肺動脈に加えて、背骨(ガル・ツア)近くの脈も切断する必要があるとされる。かなり深いところにあるので見つかりにくく、経験の浅い者は失敗しやすい。いったん失敗すると、その脈がますます太くなり、人間の指では切れなくなることもある。そのため、牛の場合は、気絶するまで20分から30分はかかるという。これが、いわゆる河南蒙旗の伝統的な屠畜方法である。このような方法で得られた肉こそ、美味しい(シムゲ)のである
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①ヒツジ、ヤギのような中型家畜の場合、通常の屠り方は「腹割き方法」であり、モンゴル語で「オルルフ」と呼ばれる。小刀で胸部を少し割いてから素手を突っ込み、人さし指と中指で心臓近くの大動脈をひねるようにつまんで切断して即死させる方法をいう。②「ノガスラホ」と呼ばれる別の方法も存在する。これは、「ノガス」と呼ばれる頚椎の最上部に小刀を突き刺して脊髄を切断して絶命させる方法で、「頚突き方法」と呼ぶことができよう。ウシ、ウマ、ラクダといった大型家畜に用いる。
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シム川地域のエヴェンキでは、シャマンの儀礼のなかでトナカイの「聖別化」が行われる。「悪霊に見つけられにくい灰色のトナカイ」がつれてこられると、シャマンはその背に新しい鞍敷をかけ、新しい手網をつける。そして、地面に線を引くと、その周りを太陽の運行方向に三周し、これでトナカイは天神に献上された「シェヴェク」(聖獣)となる。
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ツェテン・ラモは手を洗ってタオルで拭いながら「もう屋上のパンマ(ビャクシンの類)があまり残ってないわ。それにお正月用の薪を集めようにも数日しかないから、半日ほどお休みをもらわないと」と言うと、トゥンドゥプは「いつもなら秋の収穫作業が終わってから寒くなる前に家のロバや雄牛を追って数日間、薪を集めたり芝刈りをすれば、冬の寒いときには行かなくて済んだものだよ。今年は一つには駄獣がいないし、二つには時間もないんだからどうしようもない」(とこぼした。)
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ツェテン・ラモはトゥクパを煮ている鍋のふたを少し開けて、大根が煮えたかどうか確かめると、乾燥羊糞を一掬い分、火鉢?(rdza la)の中に入れながら、「あの人たちのロバや雄牛だって結局は生産隊長とか郷長に多年で使わせてくださいって申請しなきゃならないんだから、金持ちだとか代理人とかいって生産隊の中に入れてないだけで、実際のところ生産隊の荷駄畜といったいどんな違いがあるのかしら」と言った。
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(祖母デドゥンにカターをかけられそうになって)ドルマはいらないと意地を張るので、デドゥンは「あんたったらまるで不幸な頑固者みたいなことを。せめて右肩にツァンパのおしるしをつけていきなさい」と言って、ツァンパを少しつけた。ドルマは嫌そうな顔をして、家を出た瞬間に粉をはたき落とした。