「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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1221
〔樊〕沢は結賛と清水(甘粛省清水県)で会盟し、牛馬をもって犠牲とすることを約束した。〔張〕鎰はその儀礼を卑(ひく)いものとしようとし、結賛を欺いて言った。
唐は牛がなければ耕作することができず、吐蕃は馬がなければ戦うことはできない。〔牛馬ともにもったいないから〕犬・豚・羊を用いることを願いたい。
結賛は承諾した。銘するときには地をはらい清めて壇をつくり、二国がおのおの二千の兵を壇垣外の窪地に列べ、従者は壇下に立つことを約束した。鎰は幕僚の斉映・斉抗、鴻臚〔卿〕の漢衡、計会使の于頔(うてき)・沢・魯とみな朝服を着た。結賛は論悉頬蔵(ロンギェサン)・論臧熱(ロンツェンシェル)・論力徐(ロンチスウ)とともに、相対して壇の上に登った。犠牲を壇の北側で殺し、その血を混ぜて〔会盟者に〕さし出した。そしてつぎのことを約束した。
1222
その臣下とは一年に一回小盟するが、そのときは羊・犬・猿などを犠牲にする。まずその脚を折ってこれを殺し、ついでその腸を裂いてこれを屠る。〔ついで〕巫者に天地・山川・日月・星辰の神に告げさせて言う。
もし心が変わり、悪事を考えて〔盟に〕背けば、神はみそなわして、〔背くものはこれらの〕羊・犬と同じ〔状態〕になるであろう。
1223
三年に一回、大盟を行なうが、それは夜、土壇の上で、衆とともに供物を並べ、犬・馬・牛・驢(ろば)などを殺して犠牲とする。〔そして〕呪文を唱えて言う。
爾(なんじ)らみな心を一つにし、力を合わせてともにわが家を保て。おもうに、天神地祇ともになんじの志を知っている。もしこの盟に背くことあれば、なんじの身体は斬り裂かれてこの犠牲と同じようになるであろう。
1224
賛普は、その臣下と年に一回小盟をし、羊・犬・猿を犠牲に献げる。三年に一回大盟をし、夜、いろいろの壇に供物をおき、人・馬・牛・驢を犠牲に献げる。だいたい犠牲はかならず足を折り腸を裂いて前に並べ、巫をして神に告げさせて、「盟にそむくものあれば〔この〕犠牲のようになるであろう」と言う。
1225
ある秋のこと、その年は大変な豊作だった。裕福な家庭も貧乏な家庭も収穫祝いをしようということで、大変な頭数の羊が屠畜された。この残忍な光景を見た私は怯え、また憐れみを感じずにいられなかった。私はあまりに辛くて屠畜の行われている場所にとどまることができず、その場を離れた。屠畜が終わってから戻ると、羊の死体がごろごろと転がっており、細かく切り分けられているところだった。私は「この人たちは邪悪なことをしている。来世でどのような目に遭うかわかっているというのに。大人になったらこのような邪悪なことには背を向け、仏道修行に勤しもう」と思った。この誓いをその後何度も自分に言い聞かせたものだった。
1226
山羊か羊のいずれでも/倒されたらば呻き声/隣近所の耳にも届く/生かされたのは山羊か羊かと噂し/オンマニペメフンと口にする/そのときせめてお祈りを/してくださいと祈るばかり/口を縛られれば少しでも呼吸をしたい/少しでも息が出来れば幸せ/それはこの世で最高の喜び/私たちの運命はあまりに酷い/秋の一番脂がのっているときに/雌羊の運命はとりわけ辛い
1227
その年の秋は豊作だったので、持てる家も持てない家も収穫祝いをしようということになり、多くの羊が屠畜された。その様子を目の当たりにして、羊が憐れでたまらず、屠畜の行われている建物の中にとどまることができなくて、外に出た。屠畜が終わった頃、そこへ戻ると、羊が仰向けに倒されて屠畜・解体されているのを見てしまった。私は「この人たちは来世があるのを知りながら罪深いことをしている。大人になったらこのような邪悪なことには手を染めず、仏道修行に勤しもう」と何度も心に誓った。
1228
私が1912年にクンブムにいたとき、青海・ツァイダムから羊3000頭、馬260頭、牛140頭と、バター、羊毛、皮、ヤク毛を積んで帰還した遠征隊に会った。西寧からやってきた全ての屠畜者は、安い牛と羊を買いにクンブムに殺到した。
1229
1914年12月、私は羊6000頭、馬150頭、牛200頭とともに青海・ツァイダムから戻ったクンブムのキャラバンに会った。彼らは道中で40頭の馬を失った。彼らは馬が失われた領域の族長に対して訴訟を起こしに西寧に行った。アンバン(大臣)は1度で問題を解決した。彼は沸かした油を入れた釜を持って来るように命じた。そして、沸かした油に投げ入れた1ドルを握るよう双方に命じた。ラマはひれ伏して謝罪し、慈悲を懇願したが、チベットの首長は腕をまくり上げ、釜に直進した。その仕草はアンバン(大臣)に十分だった。ラマは鞭打ち200回を受け、200ドルの罰金を裁判所に支払うまで投獄された。
1230
村に近い畑では、厩肥を堆積させたものを肥料として使う。一日おきに女性は出かけて、籠を背負って土を運んできて厩舎で空にする。動物はこの土に糞や尿を踏みつけ、馬屋・牛・羊の囲いの床面が次第にできあがる。年末に植え付けの季節が始まると、この堆肥を掘り出し荷駄畜で畑に運ぶ。
1231
村から離れると、灰が唯一の肥料となる。7、8月に1~2日間の夏の雨で土が柔らかくなった後、一カ所を選んで全ての家畜をそこに連れてきて丸1日しっかりと踏み固める。翌日、この地表を大きく粗いレンガの形に鋤で掘り出し、並べて乾燥させる。翌春、雪が降る前にこれらのレンガを長い窯に組み立てる。外側を泥で塗り、土の精霊を鎮めるために香とヒノキの枝の焚き上げを行ない、窯に火を入れる。2日間焼いた後、「レンガ」は灰と化す。男女はこの灰を籠に背負って、播種する畑にまく。
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家族は円陣の中央に入って跪き、香とヒノキの枝を燃やす。家長は中央に穴のあいた大きな平たい円形のパンを土地の精霊に捧げ、その穴に線香を立てる。家長が地面に捧げ酒を注ぎ、宇宙の「6つの角」に向かって酒を振りまく間、家族は伏している。そして、パンを小さく分け、家族全員と2頭の雄牛に一切れずつ与え、その場で食べさせる。残りは砕いて畑に投げる。そして、耕作を完遂する人を除く全員は帰宅し、耕作が終わるとすぐに種播きを始める。
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この地域の中国人(漢人)はこの慣習がなく、農期の初めに土地を祝福し豊作と雹除けを神に祈願するという、類似した儀式を行なうチベット人からモンゴル人(土族)が受け継いだかもしれない。
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男女はかかとを付けてしゃがんで、穀物のあぜに沿って歌いながら作業する。あるグループは他のグループが歌った歌に応じ、時々全員がどっと笑いだしたりくすくす笑う。歌は放蕩で性的なほのめかしに満ち溢れているからだ。時には男女がソロで歌い、それに全員が合唱で応える。旅人、特に女性が通りかかると、即興で歌を作るコツを知っている働き手の1人が、旅の目的を示唆する表現に富んだ旅人の叙述を歌い始め、「雄鹿を探してさまよう孤独な雌鹿の道」などの淫らな韻文が延々と続く。
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かつてあまたの御仏をもってしても教化されることのなかった、三つ黒テントという名の、位が高かろうが低かろうが誰に対しても略奪を仕掛け、悪行ばかりしてきた悪名高い反抗的な人物が、正法の信者となったことで、毎年鳥獣や山羊、羊をたくさん殺してきた者たちが、悪行や強奪、横領から足を洗い、何年もの間、ゾモが種ヤクとの間に生んだ交配種フトルや生まれたばかりの仔羊を殺さなくなったという世帯が数多く現れた。
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政府は二頭の去勢ヤクを二日に分けてロパ族に提供する。それを縛りつけたところに、辺境のロパ族たちが大勢やってきて、様々な長さの剣を使って生きたまま(屠畜・解体し、)前脚と後ろ脚の肉と皮を切りわけて(みなで)わかち合う。そうした善行と悪行を目の当たりにして、嬉しい気持ちと悲しい気持ちが同時に生じた。そこで自分のためと他者のためにこんな歌を歌った。
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それからラサに行って、チョカン寺の二体の釈迦牟尼仏に参拝してバター灯明を捧げ、五体投地とコルラをし、乞食には布施をし、山羊や羊七頭を(購入して)放生するなどして、どこへ行っても長寿と無病息災を祈った。
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刈り取った牧草の束は、ヤクの毛で編んだひもで束ねられます。この四メートルほどの丈夫なひもは、リンシェ村の人たちにとって、万能道具の一つです。荷物を束ねたり、ヤクやロバをつないでおいたり、家の補修にも使います。
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驚くべきことに、牧畜民の多くは文字の読み書きができず、暦算の書物など一切学んだことがないにもかかわらず、夜に月を見て日付を(特定し)、月とともに現れる星を見てその日の星が何であるか(を特定し)、その星に基づいて吉凶占いをする。暦算書で言われていることと矛盾のない推定ができているのである。
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牧畜民の星宿の認識の仕方は、おおむね暦算書と合致している。それは牧畜民たちが暦算書から得た知識に長きにわたり慣れ親しんできた証であることは明らかである。