「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
なお、本DBは進行中のプロジェクトであり、引用や翻訳に間違いが含まれている可能性があることにご留意ください。ご利用される場合は、必ず原典を確認してご利用いただければ幸いです。問題があれば、 「チベット高原万華鏡」とはに示したお問い合わせ先にご連絡いただければ幸いです。また、論文、著書などで利用される場合は、本DBを利用したことに言及いただければ幸いです。
1321
水の流れているナルダのオアシスに乗りつけた。……ナルダには大きな四角い粘土の壁の家が点在しており、その入り口には二つの祈りの風車が風にうなりながら、バターを攪拌していて、重々しい落ち着いた感じであった。風車の羽が回るごとに、その家のあるじに恵みがもたらされるのであった。
1322
わたしが説明してもらったところによると、つぎのようにして時間が計られる。トーランが夜明け直前、ツェ・シァールが峰が明らむころ(日の出)、テイマが朝、ニィン・グンが正午、サ・リップが夕暮、ゴンモが夜、ナン・チェが夜半。
1323
どういうわけか「人頭茶」と呼ばれているお茶をかためたものを、一握りちぎって、沸騰している湯わかしに投げ入れた。道路上の朝食は、このお茶とユン・マという繊維のかたい「うまかぶら」という奇妙なものであった。このかぶらは、この時期に西蔵にできる唯一の野菜である。馬どもは炊さんの火を囲んでわたしたちを眺めていた。たいていの隊員は一口のかぶらを自分の馬のためにとっておいた。
1324
西蔵人の多くは彩った皮の顔当てをつけはげしい風をふせいでいる。このマスクには、妖怪や悪魔をおどして退散させるために、恐ろしい顔が描かれてあった。
1325
西蔵の着物にはポケットがない。上衣は高く引き上げられ、腰のところがしっかりとしめつけられている。この中にはおよそ考えられるほどのものは何でも入れられる。パイプとたばこ、幸福を占うさいころ、紡糸、護符、薬品、乾燥生肉、強い茶のかたまり、革のツァンバかき棒、バターと塩を入れた別の袋、動物の腱の大きなかたまり(これから裁縫用の丈夫な糸がとれる)、弾丸と火薬の袋、仏像、蹄鉄と爪、余分の着物、硬貨、聖書または経文、馬の綱、毛で編んだ綱、……。
1326
乾いて煙のあまり出ないヤクの糞をおし込み、ひうち石で火をつけた。火を燃しつけるために、毛のついたヤクの皮袋をふいごのようにバタバタ上下に動かしてあおいだ。火だねのそばにすわった男がそれをやるのだ。空気が稀薄なため酸素が少ないからふいごが必要だった。袋はグニャグニャしていて操作にたいへん技術がいるのだ。
1327
馬を降り、鞍をはずし……まずやらねばならないことは、半乾きのヤクの糞を上衣(チュパ)の裾に入れて、できるだけ集めることだった。西蔵人が煙を見つけないように最も乾いた糞しかつかえなかった。実際、この燃料は乾きすぎているとあまり熱がでないし、生乾きだと高地では燃えない。らばや馬の糞は早く燃えてしまうので燃料としてはすこし落ちる。
1328
(大河壩の砦の行政事務所とでもいうべき場所の)物置きの一つには羊肉がたくさんあった。五トンばかり、すっかり手ごろなかたまりに切られ凍って堅くなっていた、それは、何十人もの人員をこの地で、そしてまた探検行で、養っていくための最も大切なものであり、わたしたちの関心を集めていた。
1329
(ボンボムは)「……わたしは野生の雄ヤクの角をとり、経文とある特別の木と問題の犠牲者の衣服から裂いた布とをいっしょにおきました。これらのものには赤インクでその男の名前と年齢が書いてあります。それから運命の角に油をぬり、塩とにんにくをつけて地中に埋めたのち、第一日と第二日および第七日とをそのうえで祈祷をし、呪文を唱えました」これが終わって角を掘り出してみると、……やがて犠牲者はテントの中で気を失って倒れ、まもなく死んでしまったというのであった。
1330
翌朝早く、付近のかなり大きな山の上の鄂博(オボ)の近くに死体が置かれた。……(マニ石の)上には黄色い祈りの旗が立てられていた。死んだ男の鞍や鉄砲その他の私有物は鄂博の中央の柱にゆわえつけられた。かれは一種の小さな首長だったからである。それから死体を転がして顔を下に向け、きざんで鳥やそのほかの死体を食う動物が処置しやすいようにした。――これは喇嘛教徒の典型的なもっともありふれた葬式である。
1331
喇嘛教徒には、一つの階級、というよりもわたしの推定では賤民としてのラジャバというのがある。それは死体から肉を切りとり、教区の犬やはげたかにやるのだが、この動物は名前を呼ばれるとやってくる。骨は小さく搗き砕いて、ツァンバをまぜて、寺の白鳥や犬の餌にする。
1332
少女は巧みに魅惑的な踊りをおどりだす。大げさにはにかみながら、恋の歌をその長い袖の白い綿毛のついた袖口に歌い込む。歌はみな袖の中で歌われるが、それがしとやかさの象徴なのか、あるいは、声量を抑えるためなのか、わたしはたしかめることがでできなかった。
1333
(西蔵人か回族の若者が)優美な踊りをおどりながら少女への熱烈な返歌を歌う。一つの歌をくり返したり、歌詞を間違えたりすることは厳に禁じられている。もし、踊り手であり、歌い手であり、かつ求愛者である男が、新しい歌を思い出せなかったらたいへんなことになる。かれは世間にヤクだと宣告され、身ぐるみ引っ張り出され営倉に入れられる。
1334
ノロノロと歩く、野牛に似たけだものを追うのに、御者たちは長いヤクの皮の鞭を用いる。それは木の柄に回転環でつけられ、グルグル振り回せるようになっている。石投げ器で狙いたがわず石を打ちつけ、口笛を吹き、あひるのようにグワッグワッとびっくりするような声を出して追って行く。楽な地方を進むときは御者は回る糸巻きで毛糸を紡いでいるのである。
1335
かなり新しいヤクの糞が積まれ、四角い高さ三フィートほどの燃料囲いの中に、ぎっしりつまっていた。その上にテントが張られ、嵐のときでも燃料がテントの中で得られるようにしてあった。この囲いはゴロクのキャンプのものであった。
1336
ちょうと普通の建築用のれんがと同じくらい大きさでもっと平たい形の「れんが状の」茶から大きな片を一つ切りとり、これを沸騰している塩湯の中にトボンと入れる。一つまみのソーダを加え、ついで、二ポンドほどのバターの塊りを入れ、四フィートほどの長さの竹の筒に銅のバンドを巻いたものの中で、これらすべてをまぜて、かきまわす。すると白い泡立ったお茶ができ、表面に茶がらが浮んでいる。
1337
大きな石と泥とでできたストーブは、高さ約四フィート長さ五フィートで、この大きなヤクの毛で織ったテントの中央に据えられていた。それは棟木にそって長方形に開けられている穴のま下に置かれていた。ヤクの糞が燃えて暖かくなっていた。底に穴があって、皮のふいごがつけられており、一人の少年がそれをあおいでいたのであった。
1338
まわりの壁のところには、いくつかの皮でくるんだ箱、フェルトの束、大麦を粉にひき炒麦(ツアンバ)をつくる直径一フィートで木の柄のついた丸い石、火器類――ラッパ銃や新式銃、刀と短剣、毛の縄と皮の綱、炒麦(ツアンバ)の袋、積み重ねられた乾燥生肉、低く積まれたかたくなったヤクの糞。祖先を祭る祠堂(ツタン・神棚)の前にはバター燈明がおかれてある。
1339
ゴロク族をふくむ隊商は、チャカールの砦から北へ五里のところにある塩湖から採った塩を積んで、喀木の寺に向かって、五〇〇マイルの旅の途中だった。……この大ヤク隊商は、秋に、需要の多い甎茶とたばこ(馬の毛のように引き裂かれたもの)、粗糖、絹、鉄、綿製品、薄葉上質紙とインキ、浮き織、弾丸と火薬、銃、馬蹄、それにたぶん雲南のアヘンの小量もあるだろう、その他各種とり揃えた商品の若干の荷を積んで帰るのだった。
1340
首長のテントは糞をかためた低い壁の上に建てられており、中央に大きな粘土の炉があった。この炉をかこんでわたしたちは暖まり、すっぱいヤクの乳を雄ヤクの角で飲んだ。