チベット高原万華鏡 生業文化の古今の記録を地図化する モザイク柄のヘッダ画像

チベット高原万華鏡テキストDB

「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。

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「チベット高原万華鏡テキストDB」の使い方
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宗教的行為
彭教僧は脱脂乳と炒麦(ツアンバ)を交ぜ合わせ、一定の聖句を書いたものに包、地中に埋める。そうするとすぐ雨が降り出す。
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毛と皮革
(1)毛刈り    より良い牧草地では,各雄羊は年間17ナンガ(単位?)、少ない場合には13-14ナンガを生産できる。平均的な牧草地では、多い場合では12ナンガ、少ない場合で8ナンガを生産する。雌羊は毎年1-2ナンガを刈ることができる。雌山羊の毛刈りおこなわれておらず、夏に落とす毛を拾っている。雄ヤクは年に1回毛刈りをして、絨毛のすき取りは1〜2回おこない、1年間の毛刈りで2〜3斤の毛が得られる。雌ヤクは毎年1〜2斤の毛が得られる。裕福な牧民は、一般的に子牛を出産する年には毛刈りをおこなわず、腹の下の絨毛を切るだけである。子牛は生後3年目から毛刈りをおこなう。牧草地が良ければ、羊は生まれた年から毛刈りが可能。子ヤギは生まれた時には毛刈りをおこなわない。家畜の毛は,販売や交換に加えて、投石ヒモウや家畜係留用のロープなどの日用品を作ったりする。
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毛と皮革
羊毛を刈る前に、羊を川に入れて洗うのがよく,これにより,羊毛の品質が向上するだけでなく,シラミを防ぐこともできる。羊の剪毛の季節は通常,チベット暦の7月中旬と下旬である。早すぎたり遅すぎたりすると,家畜の健康に悪影響を及ぼす。牛を放牧するのは通常チベット暦の4ヶ月目であり,腹毛を切る時期はチベット暦の7ヶ月目。羊毛を刈る前には,羊毛の刈り取り用のナイフを研ぐ。羊毛を刈るときには,ナイフを速く動かす必要があり,刈り取りに時間が掛かると,羊の健康に良くない。毛刈りの際,羊は1寸ほどの長さの毛を残し,牛の腹は2寸の長さを残す必要がある。通常,牛の背中の毛はカットしないが,絨毛を手ですき取る。技術の高い牧民は100頭以上の羊の毛刈りをおこなえるが,スキルの低い牧民は1日に約30頭程度である。
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搾乳と乳加工
(2)搾乳    搾乳時,指にちょっとミルクを塗ると搾乳がスムーズになる。また、仔畜を母親の側に繋ぎ、最初に少量のミルクを吸わせることで、ミルクが搾りやすくなる。搾乳する前に、搾乳牛の腹毛についたゴミを取り除き、牛乳の清潔さを確保する。初めて出産した牛を搾乳するときは足を結ぶ。雌羊の乳頭は少ない(2つ)ので、通常は羊の臀部の後ろから搾る。牛の乳頭は多い(4つ)ため、通常は横から搾乳する。乳牛が乳頭を怪我している場合は、バターを塗って数日間搾乳を停止する。搾乳時には家畜を怖がらせないようにしないと、乳が出にくくなる。雌羊では、1月の子羊が生まれたとして,当月の約20日間、2月に1か月搾乳するが、3月4月は搾乳しない。そして5月から7月まで再び搾る。こういった計画が,母畜と仔畜を保護するのに適する。雌ヤギが子羊を出産した後、4月から8月まで搾乳するのが最善であり、これは母子にとって有益である。牛が夏に出産した場合は、草は良く、乳脂分も多くなり、子牛は下痢を起こしにくい。子牛が冬に生まれた場合、草が少ないので、子牛の成長のために搾乳しない方が良い。1年に一頭を生む母牛は、その年の6月に再び交配した後、10月まで搾乳できる。2年に1産の牛は、年末まで搾乳できるが,翌年の6月に交配すると8月まで搾乳できる。安多県の多くの地域では、女性は今でもバイソンの角を使用して搾乳し、その後,ミルク桶に集める。
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法具と呪物
(鄂博(オボ)の)柱にはさびた銃と剣、トルコ玉をちりばめた鞍、馬一頭分の皮に羊毛をつめてあり、そのちぢまった頭には瑪瑙の目が入れてあった(向う側の片目はなくなっていた)。上衣と長靴の一くくり、槍が一本、乾燥生肉と炒麦(ツアンバ)の一籠、その他数点の品物が太い綱でしっかりと結えられていた。このその他のものの一つは、スピャン・プと呼ばれ、デスマスクという意味で――死んだ人の肖像がかかれた小ぎれで、神聖な鏡を示しており、ほかに、ほら貝、竪琴、花を生けた花びん、および聖菓があった。
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法具と呪物
西蔵の火葬の葬式では紙のスピャン・プがバター燈の焔で燃され、その焔の色によって、死者の死後の運命が占われるのである。だがここのは「風葬」であったから、霊面、スピャン・プが残っていて、わたしたちがみることができたのだ。
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役利用
ヤク二三頭がいまや鼻孔から出血して長い凝固した血をたらしていた。御者たちの話を聞くと、それは、ヤクの鼻孔が鉄串でつき刺されたのであることがわかった。鉄串の中には一フィートの長さのものもあった。こうすることによって、たゆまない労役と高度の変化により、ヤクのはげしい運動でおそらく肥大している、心臓が動脈を破ることがないのであった。こういう出血処置を施すことによってその夜は牛を失うことがなかった。残忍とおもわれるが、この手術が必要だと御者たちは主張するのだった。
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搾乳と乳加工
(3)バターを抽出する:1950年代まで、シェンザ県一帯の牧民たちは、バターを抽出する際に振盪して分離する古い方法を用いており,夏は山羊の革袋を用い、冬には山羊の胃袋で作った袋を用いていた。袋の中にミルクを入れて、前後に振ったり転がしたりすることでバターを分離することができ、手で取り出せるようになる。この種の山羊の革袋を作るには、通常、頭の部分を切り取り、首からゆっくりと皮をはがし、四肢を結ぶと完全な袋になる。使用の際には足を結んでミルクを入れる。現在、シェンザ県一帯の牧民は攪乳器を用いてバターの抽出をおこなっているが、一部の場所では、山羊の革袋や胃で作った袋がまだ使用されている。バターを作る際は、加熱した新鮮なミルクとヨーグルトの半分を長い筒に注ぎ,力を込めて筒の中の木の棒を上下に動かすことで分離する。バターの分離には2時間ほどかかる。バター筒の表面に浮かんでいるバターを手で取り出し、冷水に入れる。バターを冷水に入れると、徐々に冷えて固まる。次のステップは、劣化を防ぎ、保存しやすくするために絞ったり、つまみ、つかみ、軽くたたくことで水分を取り除く。
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農業
蒙古人が駱駝を追いながら耕作していた。――珍しい風景。かれらはいたるところにいた。かれらはなかば定着した遊牧の蒙古族である。――西蔵人の谷(ロンパ)の農民から農業を学んだのである。驚いたことに、かれらは西蔵風の服装をしており、羊皮上衣を着、黒いヤク革の靴をはいていた。
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役利用
やっとオラ(駅伝)が到着し、わたしたちの輸送部隊は補強された。駅伝(オラ)は馬、らば、ズオ、駱駝、ラウンという奇妙な姿をした雄羊がひく荷車からなる隊列だった。この古くからある駅伝制度は疑いもなくひどいもので、農夫や牧夫に、政府に輸送力を提供するという形で納税義務を果すことを強いるものであった。しかもその提供した動物について行って世話をしなければならなかったのである。
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搾乳と乳加工
バターを分離した後、残りの水分は「ダラ(水)」と呼ばれます。ダラを鍋に入れて沸騰させると、豆腐のような白い塊が徐々に現れる。この時に2つの方法があり,1つは、沸騰させながら柄杓で鍋の中を継続的にかき混ぜる?「ebsheng」であり,オカラのような白い塊だけが残るようになったら止めて,布の上に広げて天日で乾燥させれば長時間保存できる「奶渣」になる。もう一つは,一定程度加熱したダラを袋の中に入れて吊るして「ebusheng」水を除く,袋の中に残ったものを乾燥させる。人びとは、ヨーグルトと新鮮なミルクを混ぜると多くのバターができると信じており,新鮮なミルクだけではバターが少ないため、混ぜて撹拌する方法が多く用いられる。通常は、抽出できるバターの量はミルクの量の1/7程度である。一般的に、夏のミルクはバターが多く、色は黄色い。冬のミルクはバターが少なく、色は白い。子牛を出産したばかりのヤクの乳は脂肪分は少なく、2年目のヤクの乳は脂肪分が多い。
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搾乳と乳加工
技術的に優れた女性は1日に2つのバター桶の加工ができ,1つのバター桶が18niangga位の重さで,技術に劣る女性の場合には20nianggaほどである。さらに、チベット北部の他の場所では他の話があり、バターを抽出する際の「冷たいやり方」と「熱いやり方」に分けることもある。熱い方法は、作業効率は高いがバターの量は少なくなる。この方法は、ヨーグルトの3分の1と新鮮なミルクの3分の2をバター筒に入れてしばらく撹拌し、次にそれを鍋で加熱した後にもう一度撹拌するだけである。ギーを抽出するのに400回ほどで済む。 抽出し終わったら残りの白い液体を鍋に注ぎ、沸騰させてチーズを作る。 残りの「ebusheng」の水は、廃棄されて使わず,牛や馬の餌にすることもある。この液体は,夏には、喉の渇きを癒すために使ったり,沸騰させて顔に塗ったり,墨汁に使う場合も。熱い方法に生成されるバターの量は、冷たい方法と比較してバターの量は7/10になる。冷たい方法は,作業効率が低いが,取れるバターの量は多い。方法は、バター筒に新鮮なミルクのみを入れて(ヨーグルトは入れない)撹拌してバター抽出する(通常は1000回ほど)。冷たい抽出方法は,熱い方法もよりも,バターが取れる量が30%以上多くなる。
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食文化
外では火が使われていて、この文明のわずかな萠しの上で、その夜、獲物が「焼かれ」たというのだ。「焼く」という言葉をかれは興味深く感じた。というのは、西蔵人は肉を煮るが、焼いたりあぶったりはしない。ときには生のまま食べる。
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搾乳と乳加工
牧民はおやつの類も作る。これらはお祭りや結婚式で食べられることが多いが,日常的には食べることはあまりない。主なものとしては「ララ」,「トゥイ」,トマ芋,油镖などである(油镖はよく分からない)。「ララ」は,発酵させたミルクを鍋で加熱して(煮詰めて?)乾燥させて作る乳皮状の食品であり,普通は細長く切って食べる。「ララ」はしなやかで歯ごたえがある。「トゥイ」はチーズ・バター・トマ芋の粉末・砂糖でできており,ちまきに似ており,柔らかくて甘くて美味しい。
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宿営地と放牧地
そこにはヤクや羊の水呑場がある。水には塩分は少なく、遠くから白く見えたものも塩ではなく、白い結晶だった。青海省の塩湖とは大違いだ。厚さ数センチの塩のかたまりなどない。
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植物と動物
夜、月明かりをたよりに一〇〇メートルも離れた泥塀の囲いの中にしゃがむと、もう野犬が待っている。宮本仙人は喜び、いづみ宗匠はそれを怖がる。朝日浴び わが糞喰らう羊犬 (八十仙)
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地形・天候・天体
獅泉河はもともとインダス河の別名(ヘディンもインダスの河源をカイラス北側の高地とみなしている)、チベットの古い民謡にラダックへ流れる川として歌われてきた。聖なる山 カン・リンポチェに 発する あまたの川は 馬の国 チベットを流れ 象の国 ネパールを流れ 獅子のように強い人の住む 西方の ラダックを流れ 佳人の国 中国を流れる
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服飾文化
近づいてきた女は三人のアジャラ(娘)で、どの子もサンゴやトルコ石などの飾り石を身体中につけている。おもしろいのは両耳に穴をあけて、重そうな赤や碧玉のネックレスをぶらさげていることだ。イヤリングではない。首飾りを耳につるしている。
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植物と動物
戦前の探検家たちの記録を読むと、このあたりには、ことのほか野生動物が多く、ガゼルやチルーやキャンや馬などが、数十頭、群れをなしていたという。ガゼルは石羊とも呼ばれる野生の鹿族だし、チルーも角の長い鹿の一種だが、チベット高原にしかいない珍獣だという。また、一〇〇頭からの野生のヤクにテントを襲われたという記述もある。それらの動物たちは人間がこの原始の域に入り込むにしたがい、食料として殺されたり、牧民に追い出されたりして減っていった。今では北方、コンロン山脈の縁やタンラ山脈の奥に見られるだけという。
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毛と皮革
羊の皮は屠畜季節に応じて「冬革」と「秋革」に分かれ、夏季の羊皮も少しある。皮地上の羊毛の長短に基づき、四季の服装を縫製する。
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