「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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1721
夕食が運び込まれ、我々は大きな真鍮の火鉢に青や赤に輝くヤク糞燃料に群がった。我々は、羊の脂肪(bao tze)と砂糖を詰めた無発酵の平らなパンのtong-joと呼ばれる組み合わせの料理を丸く囲んで食べた。
1722
男性が放牧をし、女性がディ(雌ヤク)、牛、羊、ヤギの乳を搾っていました。そして乳を攪拌してバターを作り、ヨーグルトを作り、また、粉状のチーズや、乾燥させた甘いチーズ、小さな角形の非常に固い乾燥チーズも作っていました。固い乾燥チーズを噛むのが大好きでした。
1723
いまでもブータン人の生活は牛-ーいや牛からとった乳を除いては考えられない。オギャーと生まれてから死ぬまで、一日として乳か乳製品を食べない日はない。だから彼らの乳製品、乳の臭いへの執着は、日本人が米の飯と味噌汁に対する執着と段違いだ。その執着の強烈さ、関心の深さは日本人ではとても理解できないくらいだ。
1724
砦の北側にはロンパという定住チベット人が、内側に毛皮のついた羊皮の外衣をあたたかく着込んで黒い革のブーツを履いていた。ときおり人々が小さな岩のロン(谷)にある休閑地を耕しているのが見えた。
1725
彼らのなかには、木製の犂を使ってヤクとラクダを組み合わて並べて繋いで引っ張らせていた。
1726
姉妹と私はたまに羊やヤギの出産介助で祖父と一緒に山に行くこともありました。山へ行くときはお弁当として革袋にツァンパを入れて持っていきます。私たちは清潔な羊の胃袋にバターミルクかチャンをたっぷり入れて、昼食用に持っていきます。
1727
山では羊やヤギの糞を掃き集めて村に持ち帰り、燃料や肥料として使用します。羊の糞は燃えにくいので、煮炊き用の燃料としては牛やヤクの糞よりも優れています。
1728
我々が寺院を去るとき、ラマたちが穏やかに歌い恭しくおじぎしながら、羊毛の鞍袋に清めたよい香りの脂肪・草・粉のソーセージをつめた。この草は柔らかいカレーの香りがするムラサキウマゴヤシの一種で、コド(ko do)、あるいはシャンド(shan do)という。手抓羊肉、文字通りには「手づかみの羊肉」として知られる羊の肋骨の部分の肉は、いちばん上につめられた。
1729
畑では大麦と大根を栽培していました。他には何を植えていたか憶えていませんが、土地が非常に乾燥していて、他のものは栽培していなかったと思います。乾いた土地なので、川の流域でしか耕作はできませんでした。大根はたくさん栽培していて、冬の間は地下に埋めておくので、大根はたくさんありました。
1730
(うちの村では)男子は畑に出て土地を耕し、種を蒔き、雑草を取り、灌漑もしていました。収穫の時期になると女子も畑仕事を手伝いに行きました。(それ以外のときは)女子はみな家にいます。家で羊毛を梳き、撚って糸にし、毛織物を作り、着物や前掛け、袋物や毛布を作る仕事をしていました。
1731
1978年、羊単位で換算した場合、群れ全体の25%を役畜(ヤクとヒツジ)が占めていた。宗教伝統にもとづいて屠畜が禁じられているため、全家畜の8~10%は老衰死するまで自由に放牧される。
1732
我々は、真珠がちりばめられたチークや黒檀のテーブルに胡坐をかいて、羊肉をメインディッシュとした宴席料理を盛大に食べた。これには凝固させたクミス(発酵した馬乳)にブラウンシュガーをふりかけたものも含まれていた。
1733
(早起きをして家畜に餌をやったり搾乳をしたりしたあと)一日の最初の食事(朝食)を食べます。肉をゆでた汁で大根を煮たものにツァンパを加えたどろっとしたスープです。内臓が出されることもあります。内臓に塩と、小麦粉またはツァンパを加えたものを羊の胃で作った袋に詰めて調理します。
1734
レバー(肝臓)は普段は食べませんでした。乞食もレバーは食べません。レバーは犬に与えていました。たまに食べるのは冬です。レバーを天井から吊るして凍らせます。よく切れるナイフで薄くスライスしてツァンパ団子と一緒に食べたものです。
1735
これらの家の1つで休息したとき、私は苦味の少ない大麦の醸造酒チャンを初めて味わい、半熟に料理して膨らんだパン生地に脂の多い羊肉を詰めたモモを食べた。
1736
ツァン地方では炉の上にはいつも大麦のスープの入った素焼きの鍋がかかっていました。そのスープというのは、細かく刻んだ肉と骨で出汁をとったもので、大根、チーズ、大麦粉を加えて作ります。私たちはこのスープを毎朝、毎晩食べていました。私たちの土地には、いい牛がいるので、肉やツァンパやチーズは豊富にありました。
1737
ナルダは重々しく落ち着ついており、大きく四角い壁のある粘土製の家が点在し、その入り口には風にうなりながら攪乳している2つのマニ車があった。
1738
土地はやせており、灌漑設備も不十分なので、私たちの住んでいた谷では大根以外の野菜は栽培していませんでした。大根は刻んでツァンパ入りのスープに入れて食べていました。また、大根を細かく刻んで、塩とトウガラシを振って生のまま食べていました。薄切りにした大根を乾燥させて、それをあとでスープに加えたりしました。また、大根を地中に埋めておき、冬でも食べられるようにしていました。
1739
ピンと呼ばれる緑豆春雨や、乾燥アンズ、乾燥カブが手に入ることもありました。それらはシガツェやパリ、トモなど大きな町から商人が運んでくるのです。
1740
私たちの故郷では腸詰(ソーセージ)が名物でした。種類は様々で、ツァンパや血を詰めたものもあれば、ひき肉と脂肪、粗びきのツァンパを詰めたものもあります。腸詰はゆでて熱いまま食べるか、天井から吊るして乾燥させます。この乾燥腸詰はたいへん美味しいものです。出かけるときには懐に入れて持っていったものです。冬には腸詰はゆでるか、凍らせて冷たいまま食べることもあります。乾燥腸詰、乾燥チーズ、そして煎り米はいつでも食べたいときに食べるスナックとして潤沢にありました。乾燥腸詰は旅の客人にも持たせたものです。