「チベット高原万華鏡テキストDB」では、フィールド調査の記録や文献資料に記録された牧畜や農耕といった生業にかかわるテキストを引用し、日本語以外の場合は翻訳も添え、「搾乳と乳加工」「糞」「食文化」「服飾文化」などのカテゴリータグをつけて集積しています。地図上にはプロットできない情報を含め、民族誌や旅行記、史資料の中にバラバラに存在していた生業にかかわる情報を検索可能な形で統合して見える形にすることで、新たな研究を生みだすことを目指しています。
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1741
飲み物としては、バターミルクとチャンがあります。男子はチャンを飲みますが、女子はお祭りの時以外はこの発酵飲料は飲みません。
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1742
セルタとザチュカの家計調査では、それぞれ21%と22%の家畜がツェタルであった。
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1743
見張りや進行等において時間を計る困難な問題は、最終的にチベット方式を採用することに決着した。説明によると次のようにに計るという。トラン(夜明け直前)、ツェシャル(山峰が輝くとき:日の出)、ニマ(朝)、ニングン(正午)、サリプ(黄昏)、ゴンモ(夜)、ナムチェ(深夜)。
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1744
おそらく私が震えていたため気を使ったのであろう、当番兵が大きな鳥の巣のような中空のかたまりから茶葉を1握り引きちぎってお湯の中に放り入れた。それは、奇妙なことに「人の頭のお茶」と呼ばれていた。我々の朝食は、路程では珍しく、これと同じお茶とユンマという木質の「馬のかぶ」であった。これは、この季節の北チベットの数少ない野菜の1つである。馬は我々を見ながら消えゆく炎を囲んでいた。ほとんどの男たちは、馬のためにかぶを一口分とっておいた。
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1745
ゴミ・チベット部族は馬肉を食べるため我々は彼らをモンゴル人として接する。 彼らが使用する地名はモンゴル語である。 ダライ・ラマ三世がアムドに来たとき、アルタン・ハンはココノール(青海湖)近隣に拠点を置き、ゴミはモンゴル人に占領された。 グシ・ハンは夏はココノールの近くで過ごし、冬はチャプチャで過ごした。 チベット人の集落では、これらの人々が異なる王国、北の白テントの王・ホル=モンゴル人や、黄河南岸のケサル王・14世紀以来重要なカムのチベット王国であるリン、に属するため、黄河を越えて通婚はしない。
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1746
テイは取り出された状態では円錐形であり,大きさは, 一般的なもので底辺の直径20cm,高さ15cmほどである。重さは700-1500gとかなりの幅がある。テイは囲炉裏の上でくん煙されながら保存される。くん煙処理によってテイの表面は褐色になるが, 保存性は向上し, 味はまろやかになる。ただし, 内部には水分を含んでおり, くん煙処理後でも2ケ月ほどでカビが生えてしまう。
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1747
屠殺にいたる手つづきは,次のようなものである。まず屠殺するべきヤクを客に見せて,客の納得を得たことを確認した。そして,その場にいる他のヤクを遠くに追い払い,屠殺現場が他のヤクの目にふれないように配慮した。つづいて,屠殺するヤクの前脚と後脚にロープを巻きつけて引きたおす。前脚と角にかけたロープは,近くの岩に結びつけて固定する。つづいて後脚を3人の男が引きヤクの身体をのばした状態で固定する。 以上の用意ができた所で,屠殺人は手に刃渡り30センチメートルほどのギチュと呼れるナイフ(gichu)を持ってヤクに近づき,ヤクの腹部,胃の上のあたりを,約30センチほど切りひらく。この時ヤクは身をもだえさせるが,悲嗚は上げない。切り開かれた部分からは,ヤクの第二胃が突出する。つづいて屠殺人は,片肌を脱ぎこの切り閉いた部分から腕を差し入れる。そして腕を食道に沿ってヤクの胸部にまで挿入し,ヤクの両肺に穴をあけて,ヤクを窒息させた。ヤクは苦しそうに舌を出す。この時,ヤカンに水をくんできて,ヤクの舌の上に注いでやる。これは明らかに末期の水の儀礼である。ヤクはおよそ1~2分で絶命す
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1748
ヤクの屠殺の仕方は,ブータン国内においても,この他にいろいろなやり方がある。たとえば,チベット人は,動かぬように固定したヤクの心臓を,ギチュでひとつきして屠殺する。この場合,ギチュを抜くときに多量の血が出る。リンシー地方では,ヤクの後頭部を切って屠殺するのが一般的なやり方であるという。
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1749
一人の男がヒツジを仰向けにして、腹の上にまたがり、その両前脚を左手でしっかりとおさえる。それから胸骨が終わるあたりのところで、皮を手の幅くらいの長さに注意深く切り開く。そのとき、一滴たりとも血を流してはならない。それからすばやく右手をその切り口から体内に入れて、力いっぱい大動脈をしめつける。ヒツジは一、二度ぴくぴくっと動くと、もう死んでいる。私たちが普通やるような屠り方よりはたしかにずっと速い。それからヒツジはすっか切り開かれて――その間じゅうずっと仰向けにしておかなければならない――肝臓、肺、脾臓、腎臓を取り除いてから、湯を煮立てた鍋の中に投げ込む。血は特別の容器に汲み取られ、前もって女たちがきれいに洗っておいた胃と腸の中に詰める。そこではじめて皮を剥ぎ取る。屠るときにも内臓を取り出すときにも、また解体するときにも、血を流さぬよう、とくに、一滴たりとも大地を汚さぬよう注意深くやらなければならない。 この習慣は、昔は北、内陸アジア全体にひろまっていた。チンギス・ハーンの法律がそう定めていたのである。マホメット教徒が屠るようなやり方をする者は、自分自身がそのように殺されるであろうと。まだ何十年もたたない以前、ヤクート人、ミヌシンスク・タタール人、それにブリヤート人で、古いシャマニズムを守っていた人たちは、少なくとも生けにえ獣はこのようにして屠っていた。日常生活では、諸民族はすでに「普通の」屠り方に移っていた。一方でロシア文化の、他方では仏教の影響がこの古いしきたりを絶滅させた。それは多くの原始のことどもと同様、トゥバと西部モンゴルの一帯だけで維持されている。
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1750
別の例として、ヤクを殺すことを考えてみよう。まず、「このヤクを殺せば、多くの肉が手に入るだろう」と考える。これは<土台>の要素であり、殺す対象がヤクであるという知識である。次に、「これらのヤクは富の群れだ」と思い、自分か誰かがヤクの首に縄をかける。これは<意図>の要素であり、ヤクを殺そうという思惟である。さらに続けて、ヤクが肉屋の囲いの中に連れていかれ、四肢は縛られて逆さまにされ、口蓋がロープで縛られる。これが、実際の殺処分が行われる<適用>の要素である。その後、ヤクの気息は絶たれ、心は体から切り離される。ヤクの目が膨らみ、生命力が完全に破壊されたとき、これが<完結>の要素である。
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1751
東部高地のメラ・サクテン地域では、牧畜民は飼育するヤクやゾを村落内で自ら屠ることを当然としてきた。サクテンの村の外縁に立つ一本の垂れた大木は、首を縛った家畜を吊るして絞殺するために使われ、その枝の傾きは長い年月をかけて家畜の重みによって生み出されたとも言われる。彼らは匿名的な誰かを雇用することなく、自らの生業の一部として家畜の屠殺を行ってきた。…(中略)…(彼らは)低地の牧畜民が忌避する屠畜に対しては躊躇がなく、その担い手や手法が秘匿されることもなかった。家畜の脚を縛った上、枝から垂らした縄を使って首を括るという、大型家畜に対する屠畜方法としては幾分特殊な手法は、新聞に取り上げられるなどしてブータン国民の多くが知るところとなった。
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1752
体は逆さまにされ、胸は締め付けられて熱く、目は光を放って動き、それが見ているそばからお腹が刃物で切り割かれ、脚は垂直に伸び、微動だにせぬまま、次なる生の道へと送られる
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1753
ある時、彼ら(ミラレパとレチュンパ)はニャナン(gnya' nang)の町へいった。そこには肉を売るたくさんの肉屋があったが、そこで乞食修行(托鉢)を行った。市場には肉のかたまりや積みあげられた動物の頭、血糊がこびりつき、たくさんの動物が屠殺されるのを列を作って待っていた。その中心に肉屋があった。(カルマパ17世の説明によれば)羊を屠殺する方法はさまざまで、ひとつは羊の口を塞いで窒息させる方法。もうひとつは腹部を切り、中に手を入れて心臓と動脈を引き抜く方法。肉屋が後者の方法で羊を屠殺しようとしたとき、動脈が寸断される前に突然羊は逃げ出し、縛られていなかったので腸がすべて垂れ下がり、血を流して死にゆきながらそれを後ろに引きずっていた。羊は震えながらミラレパとレチュンパに庇護を求め、二人の目の前で息絶えた。そして、ミラレパは大いなる慈悲の心で思わずむせび泣き、祈りを捧げ、羊の意識を菩薩道へ転移(ポワ)させた。
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1754
「幼い頃、私は本当に肉が好きだった。年に一度、中国人の肉屋に来てもらって屠殺した。彼らは漢民族ではなく、サラール地方の人たちだった。私たちがそれをするように命じることは変わらなくても、他の誰かにやってもらったほうがいいと思ったものだ。しかし、動物たちが窒息死させられているのを見ると、すぐには死なないため、全身から汗が噴き出し、激しい苦しみのどん底にいた。その姿を見るのがつらくて、私は泣き叫び、飛び跳ねた。だからその後、彼らが家畜を屠殺するとき、私にそれを見られないようにどこか別の場所に連れて行かれた。私はこのことを覚えているし、他の人たちもそう言っていた。
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1755
(fol.r15-l.4)[今後は、]こうした羅刹の悪なる教えの全てを、悪なる教えとして放棄し、身体の汚れと同様に洗い清め、白い(/善い)仏教の経典や吉祥なる善い主に依拠して、悪に思いを馳せず、[生け贄とするためにヤクに]矢を射ず、槍を投げず、[ヤクの]心臓の熱い血を口へ吹き出させず、[ヤクの]五臓を掌で掴まず、[ヤクの]赤い舌を顎へ抜き取るな。[その代わりに]広大な天の谷で草の穂を食べさせて寛がせよ。
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1756
(fol.r8-l.4) 理にかなったことを信じて、[今後は]白い(/仏教の、善い)経典や、白い人(/仏教徒、善人)の流儀、白い(/仏教の、善い)葬儀の法、白い神の教え(/仏教の教え)に依拠して、冷たい鉄の手を[羊の]体内に突き刺さず、[羊の]体内の熱い血を外へ流さず、[羊の]五臓を掌で打ち付けず、[羊の]皮を肩に掛けず、[羊の]白い骨を石皿で打ち砕かず、[羊の]赤い肉を鍋で煮ず、[獣とは違う]高尚な人の流儀に従って、魔物(デー)の道を行わず、羅刹の行いをしないように。
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1757
ニャナンの交易所には食肉類を商う商人がたくさんおり、レチュンパとミラレパの二人で托鉢に出た。肉の壁が積み上がり、頭部が山と積まれ、毛皮が敷き詰められ、血の海が広がり、多くの動物が殺される中、握力の萎えた老人さえも大きな黒ヒツジの腹に手を挿し入れて動脈をちぎりかけたところ、腸を引きずったままヒツジがその手を逃れ、恐怖で大きな鳴き声を上げて震えながらヒツジはミラレパ師弟の庇護を求め、その前で息絶えた。ミラレパは悲しみで涙があふれて、ヒツジの意識が菩薩道へ転移するようにし、大いなる慈悲でたまらなくなり、次の歌を歌った。
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1758
伝統的な製法では,生乳に少量の酸乳(生乳の1/3より少ない分量)を加えて攪拌してバターを取り出した後に残ったバターミルクに数日間溜め置きしたホエーを添加し,天日に当てて温かくしながら日中静置して乳酸発酵を進めた後に加温して凝固させ,布に入れて脱水し,そのまま置いて固める。1.5cm角に成形し,天日乾燥させる。肉の代わりとして料理に用いる。年に2,3回作るという。もう1つの製法としては,生乳に酸乳またはバターミルク,またはホエーを添加して作るものがあり,これは ’o chur とも言う。
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1759
犏母牛所生的牛犊叫”二异子”(属杂牛类),经济价值不及牦牛和犏牛,牧民为了多挤奶,多打酥油,交纳苛重的租金,而不得不把”二异子”杀死或饿死,故其死亡率高达 98%以上。”二异子”长大后每年可产十五斤酥油(犏母牛每年可产五十至六十斤酥油),因此”二异子”是有饲养价值的。据调查,索格藏部沿华尔果寨子的杂牛养得多,因为这个寨子的富裕牧民多,他们不需要交租,同时他们也有足够的能力来饲养杂牛。
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1760
随着季节和畜种的不同,各种母牛的产奶量也有所不同。犏母牛又可分为干牛、爷妈、次妈三种。干牛是交配后未产犊也不产奶的牛,占犏母牛总数的5%。爷妈是交配后未产犊,但仍有奶(头年产了牛犊)的牛,年产酥油 300 斤,奶渣27斤,占犏母牛总数的35%。次妈是产了犊,而且产奶也多的牛,年产酥油60斤,奶渣55斤,占犏母牛总数的60%。每年的6-9月是产奶的旺季,一头次妈每天可产酥油5两,一头爷妈每天可产酥油2两。
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